第1 上告人 栗田博子

1 上告人の栗田博子です。最高裁弁論にあたって,上告人代表として意見を述べます。

 夫である栗田秀男は,平成20年7月31日,アスベスト(石綿)を原因とする肺がんでなくなりました。亡くなった時の年齢は72歳です。

また,私は,神奈川訴訟の第2陣原告でもあります。私の次男栗田圭二が平成22年12月28日,同じく肺がんで,40歳の若さでなくなりました。圭二の遺族原告として,訴訟でたたかっています。

 アスベストが原因の肺がんで,夫だけでなく息子まで失いました。大切な家族を二人もアスベストによって奪われたことになります。

 

2 夫の栗田秀男のこと

(1)夫は,昭和26年から50年以上も大工として働いてきました。

 夫は,とても元気な人でした。大工としてよく働き,食事は肉や魚などのこってりとしたおかずを好んでいました。平日は仕事に励み,休日は少年野球チームの監督として,近所の子ども達の面倒を見ていました。私の二人の息子達も,夫のチームに参加して,夫と一緒に元気に駆けまわっていました。

(2)平成19年,夫は,横浜市の二俣川にあるがんセンターで肺がんと診断されました。しかし,まだ初期とのことだったので,私は少し安心しました。

 ところが,その年の12月10日に胸を開く手術をしたところ,がんは予想以上に肺の深いところまで進んでいることが分かりました。先生からは「がんは一応取ったけれど,肺がぼろぼろになっているので縫い合わせることはできない」などと言われました。

 夫は退院した後,しばぞの診療所を受診しました。そこで,肺がんはアスベストが原因だと言われたのです。

(3)それから,夫は自宅で療養生活を始めました。しかし,息切れがひどく,それまで使っていた2階の自分の部屋まで階段を上がることもできなくなりました。

平成20年6月頃に再入院してからは,常に酸素マスクを付けていなければ息ができなくなりました。食事のときも,眠っているときも,24時間マスクが手放せなくなりました。しかし,寝ている間にいつのまにかマスクを外してしまい,苦しくて暴れてベッドの柵などに身体をぶつけて怪我をすることがよくありました。

 病院では,1週間に一回レントゲンを撮っていましたが,その度に,がんが体中に広がっていくことが分かりました。夫の食は細くなり,体は見違えるように痩せてしまいました。痛みも,肺だけでなく下腹部,足の付け根,背中にまで広がり,モルヒネもあまり効かないようで,よく私に「背中が痛い,さすって」と言いました。私は夫が少しでも楽になればと思い,夫の背中を一所懸命にさすりました。

 しかし,その年の7月31日,夫は病院で息を引き取りました。

 

3 次男の栗田圭二のこと

(1)夫を失ってから1年ほど経った頃,今度は次男の圭二が「背中が痛い」と言うようになりました。圭二は,平成5年から夫や長男の浩和と一緒に大工の仕事をしていましたが,このときは,まだ39歳という若さでした。

私たち家族は,まさか圭二までアスベストで肺がんになるとは考えてもいませんでした。

 平成21年暮れ頃,圭二はCT検査を受けました。そのとき,検査台に仰向けに寝させられて,痛みのあまり気絶してしまいました。しかし,気絶するほどの激痛の原因は何なのか,大きな病院でも分かりませんでした。

 平成22年3月始め頃,圭二は近所のクリニックでレントゲン検査を受けました。そこで肺がんと宣告されました。その数日後,圭二は倒れて病院へ運ばれました。背中が余りにも痛くて眠ることができず,痛み止めを飲み過ぎて意識を失ったのでした。

 その後も,圭二はPET検査のときに痛みで気絶してしまいました。この検査で,圭二の肺がんはかなり進行しているだけでなく,背中の神経に巻きつくようになっているので手術は難しいことが分かりました。

 それから,圭二は入退院を繰り返しましたが,圭二の肺がんがアスベストによるものだと分かったのは,平成22年9月でした。しばぞの診療所の海老原先生の診察を受けて,ようやく原因が分かったのです。

 圭二の背中の痛みは本当に酷く,いつも痛みと不眠に悩まされていました。それでも圭二は,何とかよくなりたいと希望を持っていました。

(2)圭二には婚約者がおり,その年の9月11日に結婚式をする予定でした。彼女との生活が圭二の希望であり,圭二の支えでした。

 しかし,圭二の結婚式は実現しませんでした。圭二は,式に耐えられるだけの体力が回復しませんでした。それでも,結婚式の予定日に一時帰宅を強く希望して,自宅に数時間だけ帰りました。そして,自宅の居間で,小さなケーキに婚約者と2人でナイフを入れ,結婚のお祝いをしました。

 圭二は,最後まで元気になって,彼女と結婚生活を始めたいと希望を持ち続けていました。しかし,11月になると,立ち上がることすらできなくなりました。立ち上がろうとしても足に力が入らず,すぐに倒れてしまうようになったのです。

 12月21日,圭二は退院しましたが,それは圭二の病気が回復したからではなく,これ以上打つ手がないと判断されたためでした。それから1週間後の12月28日,圭二は息を引き取りました。12月9日が誕生日だった圭二は,40歳になったばかりでした。

 

4 私は,大切な夫の秀男と,大切な息子の圭二をアスベストに奪われました。

 私は,夫や圭二のことを考えると,何かもっとしてあげられることがあったのではないかという気持ちで一杯になり,今でも眠れなくなってしまいます。とくに,若い圭二が亡くなったことは,今でも受け止められません。生前,圭二はよく軽トラックを運転していたので,道を行く軽トラックを見ると,圭二ではないかと目で追ってしまいます。

 かつては,夫が息子の浩和と圭二に仕事の指示をして,いつも三人で力を合わせて,一緒の現場で大工として働いていました。ようやく息子たちも一人前の職人になり,仕事も順調で,一番いい時期だったのに,突然,アスベストで病気になったことがショックでした。現在は,長男の浩和が夫と圭二の分まで頑張っていますが,忙しくて手が足りないときには「あいつがいてくれたらなあ」とこぼしています。圭二が亡くなった後,浩和の運転する車でしばぞの診療所へ報告に行く途中の高速道路上で,突然,浩和の目が見えなくなってしまい,救急車で運ばれたことがありました。強度のストレスが原因とのことでした。浩和は,髪も全部抜けてしまいました。私は,夫と圭二に続いて浩和もアスベストで病気になるのではないかと心配で,怖くて仕方がありません。

 圭二は労働者であるから高裁で国に勝ちましたが,夫は事業主であるとして,高裁で国に負けております。二人は同じ現場で同じ仕事をしていたのに,異なる結論になったことには疑問を感じています。

 私の希望は,すべてのアスベスト被害者,遺族が分け隔てなく救済される判決です。

 提訴から12年以上が過ぎ,長いたたかいになりました。

 全国で多くの仲間がたたかっています。最高裁の裁判官の皆様には,アスベスト被害者や私たち遺族の思いを汲んだ,正しい判決を書いていただくことを心からお願いします。

 

第2 上告人 古野正行

私が一人親方として働いていた時のことを述べます。

1 経歴

 私は,1966(昭和41)年,配管設備業を営んでいた石塚工業所に就職し ました。その後1980(昭和55)年にマサト工業として独立し,1987(昭和62)年に,実弟と妻を社員としてマサト工業を有限会社にしました。

 2005(平成17)年の60歳を過ぎたころから,咳が止まらない,たんが出るという症状が出ました。そして2007(平成19)年,アスベスト(石綿)を吸ったことが原因で肺ガンが発症していると診断されました。

2 一人親方になった経緯

 1980(昭和55)年,私は配管工の仕事に慣れてきたこともあり,一人親方として独立しました。そのころは,ある程度経験を積んだ職人がいつまでも独立しないと,そろそろ独立したらどうだと元請会社などから言われたので,仲間の多くが一人親方になり,それに合わせて私もなりました。

 元請会社から見れば,一人親方は技術を持っており,仕事も早くできる上に,元請が決めた工賃にしたがう者が多かったので,都合がよかったと思います。私たちが工賃を上げてくれとお願いしても,「次からね」「今度,話をしよう」などとはぐらかされるばかりで,ほとんど工賃は上がりませんでした。

3 アスベスト(石綿)の危険性に関する認識について

 私は,元請の労働者と同じ現場,つまり,同じ環境の下で同じ作業をして働いていました。当時,アスベストの含まれたトミジ管を切断したり,サンダーで研磨したりしていました。

 ただ,一人親方になる前にも,一人親方になってからも,誰も,私たちにアスベストの危険性を教えてくれませんでした。

 現場の掲示板等にアスベストの危険性が記載されていた記憶もありません。

 それから,どれにアスベストが含まれているのか,現場にある建材を見てもわかりませんでした。

 私もアスベストが危険だと思っておらず,現場でマスクを付けずに作業を行っていました。結果的に,大量のアスベスト粉じんを吸っていたと思います。

4 私の思い

 高裁判決で,私たち一人親方は,救済の対象から外されました。

 しかし,私たち一人親方は,労働者と同じ建設現場で,同じ建材を使って,同じ仕事をしていました。そして,労働者と同じように,建材に含まれているアスベストを吸って,肺ガンなどの重い病気にかかっているのです。私も,いつ症状が重くなって人生を終えるのかと,不安で仕方ありません。

 高裁判決は,私たち一人親方が労働者と同じ重さの命をもって生きていることを無視しているかのようです。どうか,最高裁判所において,一人親方が救われる公平な判決をお願いしたいと思っています。